緊急ミーティング「政治、いや芸術の話をしよう(関東編)」の記録

緊急ミーティング「政治、いや芸術の話をしよう(関東編)」の記録

2016年8月4日に、横浜のSTスポットで、緊急ミーティング「政治、いや芸術の話をしよう(関東編)」を行いました。開催から数ヶ月が経ち、そのあいだにも様々な変化がありました。受け入れ難い現実もあります。それでも生きていかなくちゃね、とチェーホフの登場人物のように語るのも難しい。わたしは最近、自分がどんどん失語に追い込まれているように感じています。この記録の公表が遅れたのもそのせいかもしれません。しかし登壇者のひとりである危口統之氏が、次のように背中を押してくれたことで、どうにか公開にこぎつけることができました。

「どう取り繕ったって、われわれの至らなさや愚かさを隠すことはできないと感じています。
 でもそれでいいんです。
 大事なのはひとつひとつ、できることをハッキリさせていくことですから。」

 

以下、緊急ミーティングの記録です。(約33000字)

藤原ちから  2017.1.8

 

===緊急ミーティングの記録===

(文字起こし&構成=橋本倫史)

■登壇者
藤原ちから(BricolaQ)
桜井圭介(吾妻橋ダンスクロッシング)
佐藤泰紀(STスポット)
捩子ぴじん
山田由梨(贅沢貧乏)
危口統之(悪魔のしるし)
大道寺梨乃(快快) *スカイプ参加

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藤原 皆さん、お待たせしました。「緊急ミーティング:政治、いや芸術の話をしよう(関東編)」ということで、始めさせていただきます。今日、モデレーターを務めます藤原ちからと申します。僕は普段、演劇の批評をしたり、ときどき作品も作ったりしているんですけど、人の話を聞いていて、特にここ数ヶ月は「みんなモヤモヤしてるな」と感じることが多くなったんです。僕がモヤモヤしているから人のモヤモヤを引き出しちゃうのかもしれないんですけど。そう感じていた時にダンスの批評やキュレーターをされている桜井圭介さんと会う機会があって、「藤原君、何かやろうぜ」と焚きつけられまして。最初はフランクに飲んで話せる場があればいいと思っていたんですが、もっといろんな人と話してみたいなということで、STスポットの佐藤泰紀さんとアトリエ劇研のあごうさとしさんに声をかけたら、その日のうちにオーケーをいただいたので、こうして横浜と京都で開催できることになりました。

この緊急ミーティングに先立って呼びかけ文を書きまして、それは皆さん読んできてくださっているかと思うので多くは繰り返しませんが、すごく端折って言うと、舞台芸術に関わる人が政治的な発言をすることが近年多くなっているし、作品にもそれが反映されていると思うんです。でも、そうした意識があるにもかかわらずBrexit(イギリスのEU離脱)は起こるし、日本の参院選でも改憲勢力と呼ばれる人たちが3分の2議席を取る状況になっている。つまりいくら政治的な発言をしても、それが届いていない。その事実をどう捉えたらいいのか、ということがこの緊急ミーティングのきっかけとしてあります。もちろんテロの問題もありますし、日本でもつい先日大変な事件(*相模原市の障害者施設襲撃事件)が起きている。そうした状況下においてそれぞれがどのようなスタンスをとっていくのか、今日はあらためて意見交換や意識の共有を行えればいいなと思っています。

今日、参加していただくにあたって、会場の皆さんに「参加の動機」を書いていただいたので、いくつか紹介させてください。

 

「今本当は何が起きているのか、今演劇で何ができるのか、様々なことを見極めるために、そして信じるために参加したいと思います」

「似たようなことを一人で考えていました」

「投票以外の普段の政治活動を最近模索しています」

「芸術は今まで通り、自由や他者への寛容さを高らかに謳っていてもいいのでしょうか。そもそも人は、自由や寛容から逃走したいのではないでしょうか。自由から逃走してしまいたいという人の気持ちも、わからないではありません。《不寛容化する政治(=悪)》対《自由を求める芸術(=善)》のような単純な構図に陥らない議論を期待しています。そしてそれこそが芸術のできることだと思います」

「『観たい』でも『参加したい』でもなく、その場に立ち会いたいと思いました」

「うまく言葉にできませんが、現在の状況にとてももやもやしているので」

「社会や政治や事件に対する温度の低さに対して、芸術に携わる身として、芸術は人間を豊かにすることができると信じている身として、どう向き合えばいいかわからなくなりました。特にやまゆり園の事件において。この不安を誰かと分かち合えないか、光明を得られないかというのが動機です」

 

さらに、本日の登壇をお願いしたのですが、スケジュールのご都合で来られなかったアーティストの方々からもメッセージをいただいていますので、ご紹介します。まず、劇団サンプルの松井周さん。

「僕自身、最近モヤモヤしており、そうか、まずは集まればいいんだ!ということに気づかされました。芸術家は可視化できていない鬱屈や抑圧をすくい取ることで、問題提起をしたり、あらゆる存在を肯定できると思ってきましたが、現実で起きてる実力行使に歯がゆい思いをしています。だから議論したいと、思っています。」

また、「様々なことを全部は一緒にできないですが、ある冷たい感情の連鎖みたいなものを感じます」ともおっしゃられています。

 

続いて範宙遊泳/ドキュントメントの山本卓卓さんからのメッセージは、制作の坂本ももさんが来てくださっているので、彼女に読んでいただきます。

坂本 「右も左も中立も、国家も国境も宗教も、争いや暴力や無関心でもって物事を解決するのが当たり前な時代になってしまった。
聞く耳を持たない世界に、いったい僕の言葉なんか意味があるのだろうか。
そう考えたら過度なスランプに陥ってしまった。
何を書いてもつまらなく、何を見ても優しい気持ちになれない。
あるのはただ悲しみと怒りと溜め息。そんな時期があった。

けれども
きっかけがなんだったかここには書かないが僕は生きることに決めた。
僕は僕の言葉の無意味さを引き受けて前に進んでいくしかないと思った。
喚き散らしていくしかないと思った。
でもそれは、ただ一方的に喚き散らしていればいいっていうことじゃないと思った。
誰かの喚き散らしたその声にも耳をすませたいと思った。共有したいと思った。
だってそうしていかないとただのバカだ。僕はバカだけれどもただのバカにはなりたくない。
耳すませられるバカになりたい。

こんな時代でも、悪いことばかりじゃない。共有ができる。シェアができる。いいねができる。
そしてその共有の最たるもの、演劇ができる。
演劇は人間の「声」を聞く芸術だと思う。
人間の「声」がある限り、僕は喚き散らしていきたいと思っている。合法的なやり方で。演劇で。芸術で。

山本卓卓(劇作家・演出家・範宙遊泳/ドキュントメント代表)」

 

藤原 さらに、中野成樹+フランケンズの中野成樹さんからもいただいてます。読みますね。

「今回のイベントと、ずれてしまっているかもですが。
なんか、この話をきいたときに、
こんなことを思い出したのです。

たとえば大学生。
就活にヘロヘロになっている学生に、
どうして就職するの? ときくと、
仕事してお金稼がないと生きていけないし、とこたえる。
ので、仕事って何?
ときくと、
お金を稼ぐこと、とこたえる。
お金って稼がなきゃだめ?
ときくと、
お金がないと何もできないし、とこたえる。

ので、おおよそ以下のことを伝えたり、やりとりをする。

仕事ってのは、字のごとく、仕える事だよねえ。
はい。
じゃあ、誰に仕えるの?
ときくと、
社長、企業、などとこたえる。
中にはカンのいい学生もいて、
社会に仕える、なんてこたえりもする。

そう、一般的な意味での仕事ってのは、
おそらく社会に仕える事なんだろうねえ。
そして、その対価として、
「社会のみで通用する」お金をもらえる。
みんなで社会に仕えて、
みんなで社会からお金もらって、まわして、
みんなで社会に生きていこう。

一方、じゃあ、お金がもらえなくてもやる事ってある?
ときくと、
寝ること、食べる、アイドルの追っかけ、などとこたえる。
さらには、
犬の散歩、とか、カラオケ、とか、ダンス、とか、
おたく、とか、芝居とか、瞑想、とか、ネット、
なんてこたえる学生もいる。
さらには、
お母さん、弟と遊ぶ、お年寄りに席を譲る、などなど。
そこで、僕は、
じゃあ、そういったことを
「お金もらえないならやらない」ってなったらどうなる?
妊婦さんに「500円で席譲りますけど、どうします?」
みたいになったら、
ときくと、
多くの人は「終わりだよねw」みたいなことをこたえる。

じゃあ、お金にならないけどやる事を、
仕事をもじって自事(じごと)とよんでみよう。

みずから行う事、おのずとやってしまう事。

自事は、それをどれだけやってもお金はまったくもらえない。
極端に言い換えれば、
自事は社会から報酬を、評価をまるでもらえない。
なぜなら、それは仕事ではないから。

でも、みんな知っている。
自事がなくなったら「終わり」だってことを。
自事は社会には認められないかもしれないけど、
自事は世界を根底から支えている。

繰り返す。
自事がなくなったら世界は終わる。

だから、みんな、
安心して、踊れ、歌え、芝居しろ、おたくを続けろ。
ずっとずっとアイドルを追っかけ、
犬の散歩をし続けろ。

それが世界を支える。

それらはみな、社会に、経済に絡めとられがちだ。
でも、気にするな。
迷わず、お母さんになって、カラオケへいけ。
それらは社会の中にあるふうだけども、
そうじゃない。
きっと社会と対等に存在してる。

少なくとも私は、そんな気持ちで、今日も演劇してる。

中野 成樹」

 

チェルフィッチュの岡田利規さんはちょうど明日からドイツで彼を特集するシンポジウムがあるらしく、今頃は飛行機の中だと思いますが、「今日のイベント、実りあるものになりますように」と応援メッセージをくださいました。

 

▼桜井圭介さんの提言

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藤原 さて今日はまず、登壇者の皆さんに10分ずつしゃべっていただいて、そのあとフリーディスカッションに移りたいと思っています。じゃあ、共同呼びかけ人の桜井さんからお願いします。

桜井 表現、とりわけ演劇(やその批評)が政治というか社会の諸問題に対して何が出来るのか?/できないないのか?に関して、最近自分が気になったことをいくつかお話しします。まず一つ目。ある若手劇団が演劇のシチュエーションやストーリーを面白くするために、面白ネタとしてゲイを扱ったらしいんですね。僕は観てないんですけれども、それを観た山崎健太君が怒って批判するツイートをした。僕は観ていないので、その作品をちゃんとジャッジすることはできないんですけども、山崎くんの話を聞いていると、どうやらテレビのバラエティ番組の中でゲイを面白要員として扱ったり、「誰々にゲイ疑惑が」と騒いだり、そういう面白がりかたに似た感覚で作っているんだろうなと思ったんです。もし違っていたら、山崎君の批判は妥当ではないかもしれない、けれどともかくはそういう批判自体が珍しいなと。演劇に対する評において、ポリティカル・コレクトネス的なことが問題視されることは少ないので、おっと思ったんですね。現にバラエティ番組におけるゲイの扱われかたであるとか、学園祭で面白要因としてゲイを扱ったバーであるとか、あるいはミスコンであるとかといったことは常にSNSで炎上しているのに比べて、演劇の中ではそういうことが起こらないよなー、ということをなんとなく思っていたので、山崎君の批評は真っ当だし、必要なんじゃないかと思ったんです。

二つ目は、今の話と少し関連するんですけども、先日の相模原の事件――相模原の障害者「虐殺事件」と僕は言いたいわけなんですけれども――が起きたとき、最初に思い出したのは範宙遊泳の『幼女X』という作品のことなんです。初演時にあの作品を観て、僕には作品に登場するサイコパスの男、作品で扱われている題材がまったく理解できなかったんですね。

藤原 サイコパスというか、ある正義感に取り憑かれて、連続幼女殺害事件の犯人を探しまわっている男のことですね。

桜井 そうです。彼とか、姉の娘=幼女に性的いたずらをしてしまう男もそうだし。そういう人間を描こうとする意図が理解できない、なぜこの作品がそれをモチーフとして扱っているのかわからなかった。でも、相模原の事件の犯人のわからなさというのはそれとかなり似てるなと思ったわけ。で、あらためて「山本君、すげえな」と。と思ったんだけれども、芝居を観たときにはよくわからなかったから、おじさんにもわかる親切な仕掛けがあればよかったなとか、とも思います。『幼女X』は非常に評価が高くて、皆が褒めてるし、批評もありましたよね。でも、みんな作品の形式とかスタイルの画期性のことしか言わない。このサイコパスの男は何なのか、それを演劇として扱うことはどういうことなのかっていう側面の批評がないなと思ったんです。

もう一つ、最後になりますけど、こないだ平田オリザさんの『ニッポン・サポート・センター』を観ました。こっちは隅から隅まで非常にわかりやすい作りになってますね。今どきの社会問題、つまり、新聞やテレビで話題になっていることが全部てんこ盛りで入っている。この国が抱えている様々な問題、具体的には失業やDVやメンタルヘルスや性犯罪、こういったものをすべて盛り込んで提示する。ただ、平田オリザさんはいつもそうですけど、劇の中で主張をするわけではなくて、「さあ皆さん、今ここで扱われた問題について、家に帰ってひとりひとりが考えてくださいね」という作り方をするわけです。それは方法としてわかるんですけど、今回気になったのは、そこに描かれている人物は、全員が「中流」な人たちだよなー、ということ。所得じゃなくて生活、意識、価値観としての中流。下流にいて貧困にあえぐ人たちや、文化資本が少ない人というのは描かれてなくて、ある種均一な日本の中流層が描かれている。

しかも、それを作っている人たちも、演じている人たちも、演劇を観に行く人たちも全部中流なんです。そこそこ教養があって、そこそこ生活が成り立っている層に向けてそういった題材で作品を作ることで、日本が抱える様々な問題をすくい取ることができるんだろうかと思ったんですね。この社会にはサイコパスの人もいれば、いろんな僕らには信じられないような境遇にある人たちがいるわけですよね。そういうものを扱うのではなくて、ごく平均的な世界で物事を考えていくということは、もしかしたら日本の演劇の一つの限界で、社会問題に対して何か機能できるのかどうかは疑問だということを考えました。かといって、それこそポツドールみたいに自分より下流に生きる人たちを代理表象(レプリゼンテーション)することにどこまで妥当性があるのかっていうことはあるでしょう。社会や政治の問題に演劇が介入することの困難が今あると思う。
以上です。

 

▼佐藤泰紀さんの提言

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藤原 ……今日はあんまりまとめたりしないまま行こうかと思います。じゃあ、STスポットの佐藤泰紀さん、お願いします。

佐藤 STスポット館長の佐藤と言います。館長と言いましても、今年の4月に館長になったばかりです。今回、藤原さんから直接連絡がきまして、そのメッセージに対して「いいですよ」と答えてスケジュール調整に入ったんですけれども、その瞬間に僕の仕事は終わったと思っていました。なぜかと言うと、このように皆さんに集まっていただいて、劇場という広場でこういう話が行われることがいいことだと思っているからです。

まず最初にお話したいこととして、STスポットを利用していただく団体に配っている資料があります。そこに「利用対象」として記されているのは、「広く市民に鑑賞及び参加機会を提供するための舞台芸樹の公演及び活動」ということになっているんです。今回の緊急ミーティングはまさにそれに合致していると思ったので、共催という形にしています。それから、利用申請を受けたとしても、こういう場合はお断りしますという規約もあるのですが、そこには「特定の宗派や宗教団体を支持する、または支持するように勧誘する行為」という項目と、「特定の政党や候補者を支持する、または支持するように勧誘する行為」という項目があります。この会は政治的なのかって考えたときに、藤原さんや桜井さんと話していても、彼らはネゴシエーションするつもりはまったくないと。参加した方がそれぞれどのように持ち帰るかってことを考えているんだとわかったので、STスポットで開催できることだなと思ったんです。

桜井さんが「SNS上でどういう議論ができるか」という話をしてましたが、僕自身はSNSで議論したいとは思わないタイプなんです。でも議論を眺めているのはとても好きで、いろんな種類の人たちを眺めるためにリストを作ったりしていたんですね。でも、6月ぐらいから忙しくなりまして、ほとんどSNSを追っていなかったんです。そんな中、7月16日にダンサーの神村恵さんと美術家の津田道子さんがワーク・イン・プログレスをやっていたんですけど、そのときに彼女たちが「今、ヤバくない?」と言ったんですね。ちょうどバングラデシュのテロが起こったり、フランスで爆破事件が起きたり、ドイツで斧を持った人が電車の中で暴れた事件があったりしましたけど、そういう事件を僕はしばらく知らなかったんです。SNSはいろんな人が議論しているのを眺めるのと同時に、ニュースを追いかけるためにも使っていたんですけど、それを手放すとこんなにも世界のことを知らなくなるのかということに気づきました。さきほどの中流と下流の話もそうですけど、情報の流れはいくらでも自分で制御できるし、誰かに対してセーブすることもできる。そこに対して結論はないんですけど、それは面白いなと単純に思いました。

それからもう一つ。僕は学生時代から、アルバイトだったり大学の活動だったり仕事だったりで、施設を管理する活動を10年以上続けてきたんです。これは政治や社会の話からズレるように思われるかもしれないですけど、場所っていうのは意思を持っているのではないかということを感じることがあるんです。藤原さんと桜井さんがこういう会をやりたいと連絡をくれたときにも、「こういうミーティングが開かれることを、劇場が求めているんじゃないか」という気がしたのでそのまま即答をする。あるいは、STスポットは来年で30周年になるので機材が結構古いんです。……ああでも、照明機材は落ちてこないので大丈夫です(笑)。この劇場を利用してもらうときに、問題が起こるときと起こらないときがあって。何の支障もなく初日を迎えて本番終わってバラすこともあれば、毎日何かが起こるときもある。それは別に、必ずしもその団体の使い方が悪いからというわけでもないんです。そうなると、「STスポットの機嫌が悪い」という感覚を僕はどうしても得てしまう。そのようなことを考えると、僕の館長の役割というのはこの劇場の声を聴くことだと思うんです。完全に代弁することはできないんですけども、できるだけその声を劇場に集まる人に伝えることが僕の役割だと思っているので、この会をやりましょうと答えた瞬間に僕の役割は終わったと思っていたんですが、今は藤原さんに騙されてここに座っています。

 

▼捩子ぴじんさんの提言

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Photo: Kazuya Kato [FAIFAI]

藤原 今日のSTスポットの機嫌はどうでしょうね(笑)。じゃあ捩子ぴじんさん、お願いします。

捩子 人から聞いた話を最初にしようと思います。今年、60年安保の時代を生きた舞踊家たちにインタビューする機会があったんです。年配の舞踊家たちに、当時の国会前をどういうふうに見ていたのか、そしてその社会状況にどう応答しようとしたんですかってことを聞いたんですね。その回答が面白くて、大野慶人さんという舞踏家の方はこう話してくれたんです。当時、モダンダンスのダンサーというのは、社会運動に参加したり、デモに参加したりすることはまったく思いもよらない存在だったそうなんですね。これはどういうことかというと、僕が高校生のときに政治に関心がなかったこととそんなに変わりがないと思うんです。政治のことは誰か他の人たちが考えていて、自分が考えるべきことではないんだ――そのスタンスに非常に近いと思うんです。だから「デモにはまったく行かなかったし、参加するということは思いもよらなかった」と。

舞踊家たちはデモに参加しなかったけれども、新劇というジャンルの演劇人たちは実際に社会運動に参加して、機動隊と揉み合って、国会前でシュプレヒコールをあげて、投石をして、結構盛んに活動していたんです。その時間に前衛舞踊家たちが何をやっていたかというと、稽古場で投石の練習をしていたらしいんですね。どういうことかというと、「世の中ではこれくらいのことが起こっているらしい」ということで、それを無邪気に作品に取り入れようと思ったわけです。でも、なかなか迫真の投石ができなくて、稽古場で練習を繰り返していたところに、大野慶人さんのお父さん――舞踏家の大野一雄さんですね――が稽古場にやってきて、「大戦中に僕はパプワで手榴弾を投げた」と言ったそうなんです。「手榴弾を投げるときは、外側に投げると同時に、自分の内側にも投げるんだよ」と。それで、自分の内側にも投げるように投石をしたら、迫真の投石ができて、それを作品に取り入れたそうです。

この話で面白いのは、実際に社会運動に参加していた新劇はそのあと衰退していくんです。稽古場で投石の練習をしていた前衛舞踊はどうなったかというと、「舞踏」というある革命的な局面を迎えて、ムーブメントとして世界中に広まっていく。そこに関係があるのかどうかはわからないけど、この差は面白いなと思いました。

その舞踏の話をちょっとしたいんですけど、舞踏の創始者と言われる土方巽は非常に珍しい存在で、デモに行っていたそうなんです。参加してシュプレヒコールをあげていたかはわからないけど、どうやらデモには行っていたらしい。その土方巽の1960年の発言があるので、ちょっと読もうと思います。1970年代や80年代に土方巽はたくさんテキストを残してますけど、非常に読みにくいです。でも、50年代後半から60年代初旬のテキストは非常にわかりやすいです。ちょっと読みます。

「私の舞踊はあくまでも生活に密着したものだから、素材は、いつでもどこにでもあるものを取り上げる。わからない、きたない、破壊的で反社会的だ・・・などと批評されるがこれは、まだまだ既製道徳の尺度で見るからであって、とんでもないことだ。私の舞踊はあくまでも人間革命にある。私の網膜の中には、未来のユートピアがはっきりと映っている。この理想的な人間社会を出現させるための方法はただ一つ、人間の改造である。いくら社会革命だの、安保反対だのと表面だけでさわぎたてても、それはあくまでも表面の改革だけにすぎない。つまり五十歩百歩だと思う。」

これは1960年、『国際写真情報』という雑誌に書かれていたテキストです。今、僕は人の発言を2つ引用して話をしたんですけど、僕が声高に言いたいのは、政治とは別に芸術の役割があるんだということではないのです。芸術の選択にかかわる政治っていうこともあるだろうっていうことを、ちょっと話したいなと思っているんです。

また少し別の話になるんですけども、マクロビオティックやヴィーガンという思想があります。詳しくは知らないんですけど、その中には「無農薬野菜じゃなければ食べない」とか、「食品添加物は一切摂取しない」とか、過激になっていく人もいます。そうした食品を見つけることは、都市であればあるほど難しいので、都市にいたら戦わなければいけないわけです。そうすると田舎に移住して、自分で作物を耕して料理を作って食べる――そういう活動に発展する人もいます。これはつまり、自分自身が健康であることが即政治になるんだと思うんです。ここで僕がどういう意味で政治という言葉を使っているかというと、「自分自身がよりよく生きるための選択をする」という、そういう小さいレベルの政治について話しています。

僕はコンテンポラリーダンスにかかわっています。僕の仕事というのは主に、作品を作って劇場で上演するという形態なので、ダンスとは言っても演劇とそんなに変わらず、いわゆる小劇場演劇という文化形態の中で作品をアプトプットしているわけです。でも、小劇場演劇という文化形態を積極的に選んでいるわけではなくて、なんとなくこういう感じだろうという経験があるから、その中で作品を作っているんです。その文化形態の中で、政治的なイシューを埋め込んで演劇を作る人もいるでしょう。政治的なダンスを作る人もいるでしょう。でも、その創作活動を支えている生活に目を向けたときに、たとえば作品制作にかかかるお金を派遣のアルバイトで稼ぐ人もいる。それは全然いいことなんだけれども、その派遣のアルバイトが何によって支えられているかというと、資本主義であるとか、ネオリベラリズムであるとか、なんとかミクスであるとか、人によってはあまり支持したくない政策によって支えられているかもしれない。そういった矛盾の中で作品を作ることはあると思うんですね。

今、たとえとして小劇場演劇という形態を出しましたけど、その形態を選択する段階の政治性もあると思っていて、違う形で作品を上演する方法もあるだろうと思うんです。それがヴィーガンのたとえほどラディカルに選択できるかどうかはわからないけれど、その形態を変えるために選択に意識的になるっていうことが、政治的な作品を上演することと同じぐらい可能性があるかもしれない。僕自身ダンスをやっていますけれど、作品を作って上演するということはダンスの前提ではないわけです。ダンスにかかわるときに、作品を作って上演する必要はない――そう考えたときに、ちょっと公演というものをやめてみようかと思ったんですね。公演をしばらくやめてダンスにかかわったときに、何か面白いアウトプットの形態になるんじゃないか。あまりラディカルではないかもしれないけど、プチ・ラディカルに形態を選択できるんじゃないか。それは自分の生活をよりよくするための政治で、そういう意味では芸術と政治というのはイコールなんじゃないか、そう思っているんです。「芸術と政治」と聞いたときに、ものすごく大きなものに奉仕しなければいけないんだという義務感の前に気勢を削がれてしまうよりは、自分自身の生活をよりよくするための選択であると捉えると、芸術と政治というのは気楽に使えるものなんじゃないか。気楽に使って物事を動かすほうが、「どうしたらいいのかわからない」でとまっているよりは希望があるんじゃないか。そんなことを思っています。

 

▼山田由梨さんの提言

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Photo: 川面健吾

藤原 ありがとうございます。じゃあ次は、それこそある意味プチ・ラディカルに活動している山田由梨さん。

山田 山田です。贅沢貧乏という劇団を主宰しています。もし皆さんがここに立って政治と芸術について話してくださいと言われたら緊張するように、わたしも今ここで緊張しています。何を話そうかってことを今日まで考えていたんですけど、わからないことが多過ぎて、わからないってことについて話そうと思いました。今回、来てくださった皆さんの参加動機を読ませていただいて、その中に「知識とか思想とかをしっかり持っている人でなくても発言できる場だからいいと思った」と書かれている方がいました。だとしたら私、その代表だと思っています。

私は劇団をやっているんですけど、芸術の話はあまりできないかもしれません。それはなぜかというと、芸術家としてという以前に一人の人間として、私は今この世界とどう向き合えばいいかわからないからです。もしかしたら皆さんもわからなくて、モヤモヤしてこの場に来ているのかもしれないんですけど。以前、藤原ちからさんに劇団の公演を観にいただいたとき、「山田さん、最近モヤモヤしませんか?」と言われたんです。「え、モヤモヤ? あ、します」って。そのときは政治についての話はしなかったんですけど、後で「参加しませんか」と誘っていただいて、今日ここに来ました。

皆さんの参加動機を読んでいると、「危機感を感じているけど、どうしたらわからない」という思いが多く書いてあったように思います。それを読んで、「ああ、わかるわかる」と思って、それに安心してここにいます。私の参加姿勢みたいなことを言うと、わからないことはわからないって言うし、知ったかぶりをするとすごく無意味なことになってしまうので、知ったかぶりはしない。それはこういう場だからってことではなくて、たとえばSNS上で話すときでも「知識のある人や思想がある人じゃないと政治について語れない」ってことになっている気がしているので、こういう場でも「わからないことは、わからないです」と言う。それが私がここに来た意味なのかなと思っています。

「わかんない」っていうことは、すごく正しいことなんじゃないかって思うこともあるんです。テレビを観て何かを知ろうとしても、「テレビはすごく偏った報道をしている」と言う人がいますよね。じゃあ自分で歴史を勉強しようとしても、勉強すればするほどわからないことが増えてくる。普段の生活が忙しいから調べきれないし、何を信じていいのかわからなくなる。そうやってわからないが続いていくんですけど、その「わかんない」ってことを堂々と言いづらかったところがあるんです。

この間、早稲田大学の水谷八也先生とライターの清田隆之さんがやっている自主ゼミに参加したんです。日本国憲法の成り立ちについてのドキュメンタリー番組を観て、それに関してお二人が話し合うという内容だったんですけど、その番組では「今の日本国憲法に対して、GHQに押しつけられた憲法だって批判する人もいるけど、日本人の民間憲法学者が作った憲法なんだ」ってことを主張していました。それを観ると、私は素直に「ああ、そうだったんだ」と思うわけです。

でも、次の日に『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』という本を読んでいたら、「日本人が作ったと主張する人たちがいるけど、実はGHQが作ったものなんだ」と書かれている。

どっちなのか、結局わからなくなる。

そういうこともあり、本当のところ何もわからないっていうのはかなり当たり前の状況なのかもしれないって思ったりします。何が正しい情報なのかの判断が難しいから。

一つ、その自主ゼミで印象的だった事があって。「最後に質問等はありますか」となったときに、早稲田の学生さんが手を挙げて、思いつめた様子で話し始めたんです。
「私はこの自主ゼミに来てますけど、周りの皆は憲法のことなんて興味なくて、ポケモンGOをやってますよ」って。「周りの皆はこういうことに興味がなくて、私はどうしたらいいのかわからないんです」って。その言葉を聞いたときに、ああ、こういう「モヤモヤ」をきちんと発言できる雰囲気というのは大切だな、と思ったんです。

私は今24歳で、劇団を立ち上げたのは20歳のときです。だから、私が演劇にかかわるようになったのは11年の東日本大震災以後で、別に震災後だからどうこうって話ではないんですけど、混沌とした状況の中で表現するってことを始めていて。劇団を立ち上げた翌年、21歳のときに参院選があって、そのときに安保法制の話や「戦争法案」ってことも言われていて、そのとき私はよくわかっていなかったけれど「何かヤバイんじゃないか」と思って、そのとき初めてツイッターで政治的な発言をしたんです。そうすると、同級生からは「そういうことを言わないほうがいいんじゃないか」とか「そういう事を考えたり発言したりしていると視野狭窄になる」とか「表現をする人として、政治的なことを言うのはどうなの?」ってことを言われて、ちょっとトラウマみたいな感じがありました。そのとき、何でこんな空気になっているんだろうと思ったんです。若者ぶってウザいかもしれないけど、おじさんとかおばさんに「何でこうした発言をしづらい世の中になってるの?」って言いたくなる。でも、私たちが黙っていると、私たちがおじさんやおばさんになったときにその時にの若者に「何でこんなことになってるの?」って言われるから、このままじゃダメなんだと思ってます。

藤原 ちょっと補足すると、贅沢貧乏という劇団は一軒家やアパートを借りてそこで演劇作品を上演しながら、半分はそこで生活もしながら活動している劇団です。僕は、山田さんは自分で言うほど「わからない」こともない気がしていて。つまり、仮に狭い世界を描いているように見えたとしても、そこにこの時代ならではのモヤモヤした空気が入り込んでいて、嘘がないというか。そう感じているので、今日はお呼びしました。じゃあ、危口統之さんお願いします。

 

▼危口統之さんの提言

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危口 今日に向けて準備をしようとしたんですけど、どうも気乗りしなくて。もともと大岡昇平とか大西巨人とかそのあたりの戦後文学が好きで、そういったことを含めて何か話せるかなと思ったんですけど、違うなと思ったのでやめます。戦前戦中の状況と現在を重ねることで危機感を煽るということも、以前はアリだと思っていたけど、今日は自分にそれを許可しなかった。状況が変わったのかもしれません。ところで、今日会場に来て最初につっこんだのは、「この配置はなんだ」と。演出家としての僕が考える政治性というのは、上演空間の政治性なので、客席の配置というのはまず最初に考えることで。それがこの状態(※注1)というのは、うーん、残念!

佐藤 それはちょっと、僕も申し訳ないなと思ってます。

危口 事情はわかります。政治とは何だっていう問題はでか過ぎて僕も簡単には言えないんですけど、政治意識の芽生えのようなものがあるとすれば、事物の有限性を見出すことにあると言えるのではないか。「無限じゃないんだ」と知ったときに、それを独占するか、「あいつには分けてあげよう」となるか。ものすごく雑ですけど、有限であることを意識することで政治が発生すると定義してみる。逆に言えば、子供にその意識がないのは無限に生活が続くと思っているからで、大人になってもある対象について無限を信じられるならば、彼ないし彼女はその対象について政治性を発揮することはできないと考えていいのかなと思っています。

あとはまあ、皆さんの話を聞きながら色々考えたので、それはディスカッションに入ってから触れようと思うんですけど、演出家として提言みたいなものがあるとすれば――この会合は文書化するんですよね? これはあくまで提言で、皆さんに守っていただく必要はないんですけど、この会合が終わったら、参加した一同、目も合わさず一人で家まで帰る。レポートが公開されるまでは外部発信禁止とするのはいかがでしょうか。飲み会などもってのほか。店を予約してるらしいですけど、俺は誰とも目を合わさず、一人で帰ります。そして家に帰るまで、電話も見ず、本も読まずに、ただ風景だけを見て家まで帰ります。賛同してくれとは言わないけど、全員がそうなったときの美しさに俺は涙する。まあ、完全に僕の美学です。押し付けです。ただね、議論に有限性を設けたい。飲み会に行けば、ここで話した内容よりもちょっと熱かったり面白かったりする発言が出るのは目に見えてるけど、じゃあ来てくれたお客さんは一体何なんだってことになるし、今日はお客さんも――この構図で舞台と客席が組まれてるから「お客さん」と言わざるを得ないけど――発言ができるわけですから、文字化されたものがウェブなりに発表されるまで発言できないっていうのをね、提言したい。この時間と空間の中で全部出せと。それはどうだろう?(※注2)

藤原 いや、いいと思いますよ。でも、僕は飲みに行くので、飲んで話したい人は来ればいいと思います。

危口 飲み会に行った人に対してどうこうっていうのはないです。いや、「ないです」っていうのはほぼ嘘ですけど。

かつて夏目漱石は、政治とは何かと聞かれたときに、「一つの場所を異なる二者が同時にオキュパイすることはできない」と答えているんですね。彼は明治国家からエリートとしてロンドンに派遣され、西洋の現実を目の当たりにして神経衰弱になって帰ってきて、出鱈目なものを書こうってことで『我輩は猫である』を書いたわけですよね。(※注3)それも有限性にかかわることだと思うんです。他にもいくつか考えていることはあるんですけど、細かいことばかりなので後で言います。

藤原 わかりました。一つ言い訳と提言的なことを言わせていただくと、まずこの客席ですね。これもやっぱり有限なので、選ばざるを得ないわけです。もちろん色々なパターンを考えたわけですけども、すぐに満席になり、さらにすごい問い合わせがあったのをごめんなさいと断らざるを得ない状況だったんで、佐藤さんと相談して「人がたくさん入れる形にしましょう」と選びました。

もう一つ、この場は有限だと思っているけれど、一方で、これで終わりじゃないとも思っているんです。今回この会合を開いたのは、劇場をこういうふうにも使えるっていうことを見て欲しかった。特に若い人たちに見て欲しかった。それで東と西を代表するような小劇場に声をかけたんです。わざと劇場を選んだんです。今回は僕と桜井さんが呼びかけ人でやったけど、こうした動きが自由に広がっていけばいいと僕は思っています。

 

▼大道寺梨乃さんの提言

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藤原 じゃあ次は、スカイプでの参加になる大道寺梨乃さん。彼女はつい最近まで北京と香港とバンコクに一人芝居でツアーをしていて、イタリアに帰ったのが昨日ですか?

大道寺 そう、昨日帰ってきた。えっと、特に話すことを用意してないんですけど、このツアーをやることになった経緯を話すだけでもだいぶ政治的かもと思うので、それを話します。

『ソーシャルストリップ』っていう名前の一人舞台を2014年に日本で作って、それを2015年2月にTPAMで上演したんですね。そもそもこの作品を作ろうと思ったきっかけっていうのは、2013年にドイツにいたときに、ドイツの知ってる劇場に売り込みに行ったことがあるんですね。そしたらすごい冷たくされちゃって、それでムカついて「劇場でものを作るのはやめよう」って気持ちになって、家でやれる演劇を作ろうと思って作ったのが『ソーシャルストリップ』という作品です。だからTPAMで上演したときも友達の家でやらせてもらったんだけど、それを北京にあるペンハオ劇場のオーナーであるワンさんが観てくれて、「北京でこういう作品を観たことがない」って気に入ってくれたんです。「大掛かりなセットを作っても大したものを見せられない人もいっぱいいるのに、こんなに小ちゃいところでこんな作品をやるなんて、いいじゃん!」って言って、彼が招聘してくれて北京のフェスで公演できることになりました。どうせ北京でやるならツアーにして頑張りたいと思って、香港とバンコクの公演場所も自分で見つけて、3都市ツアーにすることにしたんです。助成金が降りなければできなかったんだけど、ありがたく助成金をいただけたので、3都市ツアーを7月いっぱいかけてやりました。

北京公演をやるにあたって、準備は1年ぐらい前から始めてたんだけど、それは検閲を受けなくちゃいけなかったからで、検閲のために上演台本とビデオと使う曲の歌詞を全部送りました。『ソーシャルストリップ』は最後に裸になるシーンがあるんだけど、裸はまずいんじゃないかと思って「中国 芸術 裸」とかで検索したら意外と裸の作品が多くて、皆裸ぐらいの感じで。結局検閲も通ったし、まあ余裕だろうと思って行ったんです。それで北京に着いてみたら、準備とかもちゃんとしてくれてて、劇場もすごくいい劇場で。全部がいい感じで意外と順調じゃんと思ってたんだけど、ゲネプロをしたあとになってタイトルを変えられてることに気づいたんです。「『ソーシャルストリップ』だと検閲が通らないから、こちらで『記憶のネックレス』ってタイトルに変えておきました」って言われて。それはちょっと作品的にまずいから、最初にアナウンスしてもいいですかってお願いして、字幕にタイトルを2個出して「本当はこっちのタイトルです」って言うことにしたんです。

藤原 それはちなみに、「ソーシャル」が引っかかったんですか、「ストリップ」が引っかかったんですか?

大道寺 ストリップ、ストリップ。それで、行ってみたら「裸になっちゃダメ」って言われたんです。でも、裸になる作品も結構あるみたいだけどって言ってみたんだけど、裸の作品をやってもいいのは芸術特区だけで、その外はダメらしくて。「裸になったらこのフェスティバルを運営できなくなる」と言われたので、それは大変だと思って、じゃあ裸になりませんってことにしたんです。オーナーのワンさんに「政府の人はチェックに来るんですか?」って聞いたら、「普通のお客さんに混じって来るんだけど、どう考えても楽しんでないおじさんがいる」と。そのおじさんはよく来るから、二人くらいは顔がわかるんだけど、あとはわかんないって言われたんです。それって楽しんで観れてないだけで、演劇がすごい好きなおじさんだったらどうするんだろうとか思ったりして。とにかく、そういう人が来るから裸になるのはやめてほしいということになったんです。

もう一つ面白かったのは、劇場のオフィスに赤い横断幕が貼ってあって、そこに中国語で何か書いてあったんです。そこに書かれていたのは「自分たちは政府が基準とするポリシーに賛成していて、それを勉強しています」ということで、それをちゃんと貼ってるってことを写真に撮って送るらしいんです。そうやって政府の方針に従っているという態度を見せるということに、「ほーお」と思いました。

北京の次に行ったのは香港で、香港っていうのは中国なんだけどイギリス領だった歴史があって、中国の中でも特別区なんです。民主主義だし、政府も北京と違うんだけど、最近は圧力がかかってきている感じがあるので、香港の若いアーティストは政治的な作品をいっぱい作っている印象を受けました。たまたま観に行ったダンスパフォーマンスも、始まる前に傘のデモの映像を流してたり、垂れてる幕には「6月4日」っていう天安門事件の日――私の誕生日なんですけど――が書いてあったり、言葉のない舞台だったけどすごく政治色が強くて。でも、その公演はお客さんが全然いなくて、「こんなに少ないもの?」って聞いたら、「宣伝すると警察が来ちゃうから、友達に電話して観てもらうしかない」って言われました。

それで、自分が公演するとなったときに、私の公演は個人的な物語で、本当にあったストーリーで作ってるから、香港のお客さんがどう観るのかなってちょっと不安だったんです。実際やってみたら結構好評だったんだけど、アフタートークのときに「日本ではこういう日常的な話を舞台にするのが流行ってますか?」と聞かれて。私の周りの人のあいだでは多いかもですねって答えたんですけど、「香港では今、大きいトピックを取り上げる人が多いです」って話をされて。ちょっと話が北京に戻るんですけど、北京のアフタートークのときには「あなたはこの作品で、自分のプライベートな物語を見せたかっただけですか?」って質問されたんです。「えっと、そう見えていたかは別ですが、私は人々のちっちゃい物語の中には、必ず社会背景や世界情勢が含まれているはずだから、私なりのやりかたで今の時代を切り取ったつもりです」って答えたんだけど、そういうやりとりがありました。

ちなみに、北京で公演をしたペンハオ劇場は中国で唯一のインディペンデント劇場なんです。ワンさんは普段歯医者さんなんですけど、そのお金をつぎ込んで劇場を作って、国の支援を受けずにフェスティバルをやっていて。本当は演劇フェスティバルをする許可を得れてなくて、他の会社を通じて運営しているらしくて、ワンさんは普通に政府にマークされると思うんだけど、何でそういうことしてるかって聞くと「自由になるためだ」って言ってたんです。香港で公演をしたのは70年前に建てられたビルの一室で、香港人は皆忙しそうにしてるんだけど、そこのオーナーのチャーリーはめっちゃリラックスした生活をしてるんですよ。自分の好きなものを大切にして、周りの友達と楽しんで過ごしている。そのチャーリーが言っていたのも、「政府の支援を受けると自由になれないから、政府の支援は受けない」ということだった。

3都市目に行ったバンコクは、実は中国並みに規制が厳しくて、ヌード写真の展示会に警察が介入して作品を持って行っちゃったりすることもあるんです。だから、ちゃんとした劇場だと裸になるのは問題になったと思うんだけど、私がやったのは日本人経営のヘアサロンが持っているギャラリーだったから、あんまり問題にならなかった。そんな流れで公演をして、ざっくりだけど思ったのは、北京の人はものすごく規制を受けていて、facebookとかtwitterとかinstagramとか見れないんだけど、VPNってアプリケーションを使うと1日2時間だけ無料で見れるんです。横断幕とかも、貼っているふりをしていれば大丈夫。北京に行く前は「自由じゃない場所だ」っていう印象があったからちょっとドキドキしていて、実際自由ではないんだけど、それでも成り立ってる部分はあるし、皆がなんとか抜け道を探してる。お金がある家の子とかはアメリカの大学に行って、2個の社会を持っててそれを使い分けてたりして、早い話が「自由って何だろう?」って思いました。日本で裸になって規制を受けたことはないけど、じゃあ日本はあきらかに自由じゃない中国の社会と比べて自由かなって思うと、自由って何だって気持ちになったんです。facebookを見れれば自由なのかとか、よくわかんなくなって、自由をもっと考えなきゃって思いました。そういうことが今、日本でもトピックになっているのかなと思うんですが、それが自分にとって大きな収穫だった。

 

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▼中国の検閲と日本の“検閲”

藤原 ありがとうございます。ここからは言いたいことや質問がある人は挙手してもらえればと思っていますが、ひとまず話し続けるのでいつでも入ってきてください。今、大道寺さんが言ってくれた中で気にかかっているのは、「自分のプライベートな物語を見せているだけですか?」という質問をしたその人はちょっとどうかなと思うけど、実際問題、日本的なモヤモヤした表現が海外で通じないっていう現状はあると思っていて、僕はそこに若干苛立ってもいるわけです。それは中国もそうだし、ちょっと微妙だけど韓国もそうだし、ヨーロッパもそうだと思うんです。この日本的なモヤモヤってものを、クールジャパンみたいな売り出し方とは別に伝えていかないと、日本の舞台芸術の世界的な展望は厳しいんじゃないか。たとえば香港だと雨傘運動があったり、政府に批判的な本を置いていた書店の人が中国政府に拘束されたりと、目に見えて厳しい状況があるので、そういう政治的なイシューを扱うことが芸術の表現として有効であると。韓国も同じような状況なわけですけど、それに比べると日本のアーティストの表現は弱く見えちゃうことがあるんじゃないか。

大道寺 でも、「ぶっちゃけどうですか?」って聞いたんです。香港ではそういう大きなテーマに沿った作品があるなかで、こういう作品はどう見えますかって。そうしたら、「大きいテーマを持って作ってる作品はシリアス過ぎて、自分の気持ちが動くとかではないかも」って言われたんです。「あなたの作品を観て思ったのは、楽しい気持ちになるし、自分に近づけることができる作品だった」って。その人は気に入ってくれたみたいで、それが私も意外だった。「何、スイーツ系?」とか思われたらどうしようって思ってたんだけど。

危口 上海に演出家の知り合いがいるんですけど、彼に言わせれば、ある種ゲーム化してるところもあるらしくて。当局の手口も四角四面だから。中国は建前上は共産主義国家なので、共産主義のヒューマニスティックな部分を使うと検閲も通ってしまう。それを楽しそうに話すんですね。この状況がベストとは言わないけど、検閲が当たり前になってしまったから、そこに生態系が発生して生存戦略ができているんですよね。

大道寺 そう、タイトルを変えたこととかも全然悪びれないの。

危口 政府が一個禁止したら、職業が一個増える。渋滞解消のために車のナンバープレートの枚数を規制する法律ができると、その法律が施行された次の日には偽造ナンバープレート屋が開業してるんです。

大道寺 面白かったのは、『ソーシャルストリップ』にはもう一人出てくれる女の子と雑談するシーンがあって、「最近どう?」みたいな感じで話すんだけど、誰かに言われたわけでもないのに「北京では政治と宗教の話はやめよう」と思ったんです。あと、誕生日が6月4日だってことも言うのはやめようと思った。北京ではそれをぎゅっと押さえてたから、香港に行ったときに「これを言ってみよう」と思ったんです。向こうでは「ロクセイ(64)」って言えば皆わかるんだけど、それを言ったときにオーナーのチャーリーが「こんなことは俺らには何の関係もないことだ」って言い出して。

藤原 僕が北京に行ったときに聞いたのは、「6月4日」とネットで書くとひっかかるから、「5月35日」っていうスラングがあると。まあそれもすぐに引っかかっていたちごっこになると思うんだけど、確かにそうやって、規制に対する抜け道はありうると思うんです。でも、抜け道を作るからいいよね、とは言えないんじゃないですか。

桜井 日本の場合、国からの検閲がないでしょう。

藤原 もうありますよ。

桜井 いや、憲法で表現の自由が保障されることになっているから、建前上検閲はないんです。日本で「検閲」というワードで問題になっていることは、ほぼ自主規制の問題ですよね。あるいは、市民からのクレームによって問題化する。つまり、国から禁止されるというわかりやすい形ではなくて、いろんな形で表現が締め付けられている。それは自分たちで首を締めているところもあるんだけど、それが今の日本の特徴じゃないですか。

藤原 この中で、自分の表現に対する規制を感じている人はいますか。それとも全然自由ですか、皆さん?

桜井 僕もこないだイベントをやったときに、裸は駄目だって言われたんですよね。2日間やったんだけど、1日目が終わったあとに「ありえない」と怒られちゃって。それを「ありえない」と言われたことはびっくりしたけども、裸になることが目的じゃなかったので、パフォーマーと相談して2日目は服を着たんです。でも、裸っていうことが問題とされるんだなってことは改めて知りました。

参加者A 佐藤さんが最初に規約をお読みになって、「特定の政党や候補者を支持する、または支持するように勧誘する行為」は禁止されているという話がありましたよね。今日は政治がテーマだから、そういうギリギリのところにあるのかなと思ったんです。その話を聞いたとき、最初に一発かまされたなと思いました。

佐藤 いや、あれはわざとやりました。だから、ほんとは藤原さんより先に話したかったなっていうのはあるんですけど。皆さんに聞きたいのは、裸になるのはダメだっていうのは検閲だと思いますけど、じゃあ劇場のルールとして水や火を使っちゃダメだっていうのは検閲だと思いますか?

大道寺 厳しいな。水も火も使いたいもん。

佐藤 でも、「建物の構造上、火をつけた瞬間に火災報知器が鳴って、そのまま消防署に連絡が行って消防車が来ちゃう」と言われたらどうしますか?

藤原 そこは僕は意見が違っていて、火と水がNGになるのと、政治的なものに対してNGになるのはかなり違うとおもいます。僕はラジオに出演しているんですけど、ある本を紹介したいと言ったときに、「ちょっと上司に確認します」ということになったんです。その上司の方に言われたのは、「この本に執筆している方で、今度の参院選に立候補する人はいますか?」と。そうやって直近の選挙に出るか出ないか、だとまだ基準がはっきりしててマシだと思ってしまったけど、たとえば「政治的な思想を持っているかどうか」みたいな曖昧な基準になってくると、その本には平田オリザさんも登場しているので、かなりこれはグレーゾーンになってきますよね。放送局としては気楽な感じで聞いてきてるんだけど、そういう自主規制の感覚は現場レベルですでに余裕であるなってことは感じてます。

危口 自由っていうと大きくて僕もよくわからないんですけど、自己裁量の大きさが大事かなと思っていて。たとえば「上司に確認します」っていうのは、現場レベルのディレクターがゴーを出したときに責任を負いきれない事態が連想されるからだと思うんです。今日、『シン・ゴジラ』を観てきて面白かったんですけど、かつて僕は工事現場で働いていて、ああいった場所ではヤバい現場に「お前、行け」と言えるかどうかが大きいんです。うちなんかは零細企業だったんで、あきらかに無茶な仕事を振られても、社長が「はい、行きます」って請けちゃうから酷い目に遭う。「明日、石膏ボードを2000枚搬入、3人でお願いします」と。無理ですよねって話なんだけど、そこに行かされたりする。

たとえば今福島で働いている人たちは、末端だと東京の現場で働いていた僕とそんなに変わらない値段で働いていて、元請けの東京電力や国は1日5万円とか払っているのが中間搾取されているんですよね。何でかというと、命や病気の危険がある仕事に対して、国や大企業は「死ぬかもしれないけど行ってください」ってことを言えないからなんです。その責任を回避したいから、真ん中に変な業者が入ってきて、更に何らかの情や倫理や道徳も絡まって、「悪いけど行ってくれ」と言われる人がいる。こういう構造は何となく想像ができる。ただ、それをこういう場できれいに説明したり、べらべらしゃべることが自分の最終アウトプットだとは思っていなくて、そこはやっぱり作品にするから。困難があるとしたら、あくまでも作品つくりの場においてです。

 

▼日常を描いた芸術は社会に影響を与えうるのか?

藤原 さっき山田さんも言いましたけど、今日の参加動機として「知識とか思想とかをしっかり持っている人じゃない人が発言する場だからいいと思った」と書いてくれた人がいるんです。今回、学者の方で話を聞いてみたい人も何人かいらっしゃったんですけど、あえてお声がけしなかったんですね。それはもちろんその人たちが悪いわけではまったくないんだけど、今の状況を分析したいわけではなかったから。たとえば僕は中国に行ったことがあるし、いくつかの状況は知っているし、いろんなニュースも日々チェックしてるけど、今日のこの場は分析をしたいわけではないっていうのが前提です。壇上にいるのはアーティストや制作者で、客席もそれぞれ多様ですけど、それぞれの人がどういう立ち位置で今後やっていくのかってことが見えればいいと思っているんです。ただ、このままだと皆さん、余計にモヤモヤして帰っちゃうんじゃないかっていう危惧はあるんですけど。

参加者B 「知識とか思想とかをしっかり持っている人じゃない人が発言する場だからいいと思った」と書いたのは私なんですけど、最後に「わかんないことに向き合いたい」って付け加えたんですね。まず私、さっき捩子さんが言った「ラディカル」という言葉の意味がわかんなかったんですけど、こういうところに来るってことがすごく大変なことだと思うんです。政治的な話や芸術的な話をすること以前に、まずここに来るってことに対して「嫌だな」って気持ちと「行きたいな」っていう気持ちが同じぐらいある感じだったんです。でも、これじゃあモヤモヤが残ったまま帰るんじゃないかと思うし、今の気持ちとしては全員の参加動機を聞きたいなとも思うし、何で政治と芸術の話を皆でしようと思ったのかを聞きたいなと思っています。

藤原 ありがとうございます。普段劇場に行って演劇を観る時でも、隣にいる人たちはワン・オブ・ゼムな観客だし、自分もそうである、っていう状況があると思うんです。今日は、皆さんの隣に座っている誰かがこれを書いたんだっていう事実を念頭に置いて想像してほしいなと思って、最初に何人かの参加動機を読みました。……あ、そちらの方どうぞ。

参加者C はじめまして。演劇ではないんですけど、僕も日常に起こることをベースとした作品を作ったりしています。大きなテーマを描いたゴリゴリした作品っていうものを社会は求めているのかもしれないけど、日常にあるモヤモヤしたものが大きなテーマにも繋がっているんじゃないかという思いで作品を作っていて。でも、自分の作っている作品が成立しなくなるんじゃないかっていう危機感があるし、ゴリゴリしたものを全面に出したものじゃないと社会に届かないんじゃないかっていう葛藤がある。そういうモードってないですかねってことは皆さんに聞いてみたいです。

山田 あると思います。最初に紹介された山本卓卓さんのメッセージを聞いたときも、「私もそう思ってる」と思って勇気付けられました。私も今すごいモヤモヤしていて、それはきっと作品に反映されてくるし、しようと思ってるんですけど、ある方が参加動機に「2015年に最も批評性を持っていた芸術家はSEALDsだったと思う」と書かれているのを読んで、すぐに言葉にはできないけど思うところがあって。直接的なことを言うのがいいのか――。

参加者C 最初に桜井さんが、「社会や政治の問題に演劇が介入することの困難はある」という話をされてましたけど、日常のモヤモヤが政治につながっているというのは甘い考えかもしれないっていうことは、自分の作品を観ても思う部分はあるんです。まあ、結論のある話じゃないんですけど。

桜井 わからないんですよ、それは。たとえば改憲勢力が3分の2議席取るっていうこと自体がびっくりするんだよね。「プライベートな日常が政治である」というような作品を作って、それが政治的なものとして人々に届けばいいんだけど、届かないんじゃないかという危惧もある。つまり、自分の考えていることはこのぐらいの範囲には届くだろうってことは、それなりに考えるじゃないですか。これは常識でしょうとか、もうちょっと強く言わなきゃ伝わらないなとか、いろんなことを考えますよね。その判断がつかなくなってきている感じがある。

危口 いや、むしろつきやすくなってきてるんじゃないですか?

藤原 うん、僕もどちらかというとつきやすくなってる気がしますけど。

桜井 つまり、大きい声で言わなきゃダメってこと?

藤原 そういう方向に進んでいるんじゃないかという気がしています。

危口 いや、僕が「つきやすくなってきてる」と言ったのは、自分がやっている範囲がごく狭いというのもあるんですけど、言いたいことが伝わりやすいお客さんしか来ないということです。最近は田舎や高校で仕事をいただくこともあるんですけど、そういうのはありがたいですよね。普段とはまた違う言葉が必要だから。

藤原 つまり、都会ではない場所で表現活動をするときに、違う言葉が必要になるっていうことですよね?

危口 そう。ただ、アートとは何かというのを政治と結びつけるのは難しいというか、「アートも政治だ」とか「政治もアートだ」という言い方が可能になってしまうので、僕にとってはこの2つを並列させる理由が設定しにくいんですね。「今までこうだったけど、こうしたらちょっと面白くなるんじゃないの」という、創意工夫の発露がアートであると雑に決めてみて、それを絵画なり彫刻なりインスタレーションなりという分野でやる人がいわゆる「アーティスト」として存在してるんだけど、同時にそれは歯医者さんなり左官屋なり政治家なりが日々やっていることでもあり、でも、それを全部アートなんだと言ってしまうと底が抜けてしまう。

大道寺 さっき発言してくださった方の「ゴリゴリしたものを全面に出したものじゃないと社会に届かないんじゃないか」という話のことを考えているんですけど、日常的なものはたしかにインパクトがないし、飲み込まれやすいけど、たとえば「5000年前の政治がどうだった」とか「国がこうなってた」ってことを教科書で読むことはできるじゃないですか。それを読んで「ふーん」とかって思うけど、こないだ5000年前のスープが見つかったっていうニュースがあったんです。壺に入ったまま残ってたのが出土されたらしいんだけど、そういう話を聞くとすごいって私は思う。わかるかな?

佐藤 当時の日常がそのまま残ってることがすごいっていうこと?

大道寺 スープのほうが面白いって私は思うんです。5000年前の政治はこうでしたってことより、5000年前のスープが発見されたってことのほうが「すごい!」って。

山田 今のスープの話で思ったのは、私は江東区の一軒家やアパートで作品を作ってきたんですけど、そうすると下町に住んでいる人が主人公になるんです。その町に住んでいる人を観察して、その人を私がフィクションで描くってことになるんですけど、現代の日本に住んでいる人を描くとそれは絶対に政治の影響を受けていると思うんです。その時は、貧困層と言われるような人のことを書いていたんですけど、生活を描くとそこには絶対に政治が反映されていると思っていて。たとえば、アベノ――なんとかミクス。

危口 捩子さんが名前を伏せたのは、それが様々なものに代替可能だからで、別に「安倍」を伏せたわけではないので、伏せなくても大丈夫です。

山田 そうですね。誰かに「アベノミクスはこうだった」ってことを説明されるよりも、「こういう生活をしている人がいた」ってことのほうが私にはわかるなって思うんです。こういうスープを飲んでいる人がいたっていうことを入り口にして、その背景にリーチできる可能性がある。

 

▼シリアスになりつつある状況の中で

参加者D さっき紹介された「2015年に最も批評性を持っていた芸術家はSEALDsだったと思う」というコメントを書いたのは僕なんですけど、それはある意味では挑発的に書いているし、ある意味では真剣に思っていることなんです。たしかに日常の中に政治的な背景や社会性みたいなものはあると思うんですけど、「なぜその人がその生活をすることになっているのか」ということへの問いが弱いなと思っていて、あまりにも無前提に「日常は社会を反映してしまう」と思いすぎているんじゃないかという気がします。僕は演劇より映画のほうをよく観るので、そこからくる違和感なんですけど。最初に桜井さんが言っていたように、「なぜサイコパスを扱うのか」であるとか、そういう問いをもうちょっと取り上げていくべきなんじゃないかと思うんです。作品の中でも、何がその人を動かしているのかという問いを明確にしたほうがいいんじゃないかと持っているんですけど、どうですか?

藤原 僕の意見を言わせていただくと、たとえば「スープのほうが面白い」と思える感覚を僕も持っている。それはたぶん、日本人だからというのがあるんじゃないか。逆に言うと、その感覚は海外に通じないだろうなと思っちゃうんです。だから、たとえば今の時点で贅沢貧乏を海外の人に紹介するとなると、「日本の貧困層を扱っている」とか、「社会格差を扱っている」とか、そういうわかりやすく批評的なブリッジをかけざるをえないと思う。でも、それは贅沢貧乏の活動にとっては本当に大事なことではないかもしれないし、もっと大事なことを表現しているとも思っているんですよね。そこをどう紹介すればいいのかというジレンマがあります。

もう一つ、作品をわかりやすく政治的にしていった時に、余裕が失われるんじゃないかということがあるんです。今回は桜井さんと意気投合してこの会を開くことになったわけですけど、桜井さんはtwitterとかですごく政治的な発言をしまくっているじゃないですか。でも、それと同時に、この人は表現におけるデタラメを愛しているんです。僕はそっちのデタラメな桜井さんが好きだから、「ああ、桜井さんの政治節がまた始まっちゃったな」と思いながらも、一緒にやりたいと思える。でも、政治的になればなるほど、笑いやユーモアやデタラメが失われていく危険性があると感じています。

桜井 デタラメなことを考えながら生きていきたいなと思っていたんだけど、最近それができないねっていうジレンマがあります。昔はこんなこと絶対に言わなかったと思うけど、今は「真面目なときに不真面目はやめてほしいな」とか、「大事なときに茶々を入れるやつはいらないな」とか、最近すごく思うんです。そこは非常に心が狭くて、ユーモアやゆとりが全然ないんです。これは自分のメンタルが良くない状態なのかもしれない。昔はどんなときでもユーモアが大事だと思ってたんだけど、今は時と場合によるってことをいつも思うんです。真面目になっちゃったんですね。自分でも嫌なんですけど。

藤原 今日の会も、最初は「お酒でも入れて話そうか」ってのが企画の出発点でしたよね。でも、いつのまにか僕もシリアスになってしまったところがある。

桜井 今の状況は、一刻も早くなんとかしなきゃいけないという状況になってきて、未来に対する堪え性がなくなってきてるんです。気の長い話で考えていけば、最終的に勝利するのは芸術的なアプローチだと思っているんだけど、それは俺が死んじゃったあとになるかもしれないなって思うと、いてもたってもいられなくなる。

捩子 その通りだと思いますね。自分が生きているあいだに成果がでないだろうなってことは、僕も薄々感じているんです。自分が死んだあとの未来に向けて作品を作るよりは、もうちょっといろんな折り合いをつけて楽しくやりたいなっていうことがあって、最初の発言につながってくるんです。自分が生きやすいように生きていくために選択をする。それに尽きるかなっていう感じですね。その上で自分の表現もあるし、政治もあるだろうと。

佐藤 最初に言ったように、この劇場は来年30周年なんです。何度か来たことがある方もいらっしゃれば、初めて来た方もいると思うんですけど、このビルの中にここが30年あり続けるっていうだけで十分政治的じゃないかっていう気がしているんですよね。何年か前に、自分はどうして舞台芸術にかかわっているんだろうと考えたときがあって、「自分が生きているあいだに、一人にでも届けばいいな」と思ったんです。僕は33歳なんですけど、今まで生きてきた中で感覚を揺さぶられた経験って、片手で数えられるぐらいだと思うんです。でも、劇場っていうのはそれを届けられる場所だと思う。僕がここで館長をやっているあいだに、誰か一人でもそういう経験をしてくれたらいいなと思ってこの職を得ているという気持ちでいるんです。だから、やり続けるっていうことがもう、祈りみたいなことなんです。

捩子 自分の作品が観客に届くのかどうかっていうことについて、今自分に降りてきた言葉があるので、それについて話そうと思います。作品を作っているときに、「自分のやっていることは伝わるのか」ってことを考えることもあるんですけど、その想いっていうのは観客を低く見積もっているんじゃないかなって今思ったんです。佐藤さんの話を聞いて、「もうちょっとわかるんじゃないか」と今思ったんです。佐藤さんに対する反論とかではないんですけど、観客をそんなに低く見積もる必要はないんじゃないか。

危口 むしろ作品が低く見積もられているんではないかと言える。作品自体においてひらかれているものは、必ずしも作者のコンセプトだけではない。僕が「作品」という考え方が好きなのはそこです。

 

▼何が「緊急」だったのか?

参加者E 今日のタイトルに「緊急ミーティング」という名前がついていて、何か芸術に大変なことが起きているんじゃないかと思って来てみたんですけども、出てくる話題は「モヤモヤ」とか「日常」とかで、それは結局、各々の現状を確認している状態なのかなと思ったんです。「今までもこうで、これからもこうだ」と。それで全然いいと思うし、それが芸術だとも思うんですけど、この会のどこに緊急性があったのかなってことは話を聞いてて思いました。

藤原 ありがとうございます。「緊急」という言葉を入れるかどうかは、正直迷いました。いくつか入れた理由はあるんですけど、一つには、煽ったという事実はあります。もう一つ、これは個人的なことですけど、このあと9月、10月とずっとヨーロッパにいるんです。ドイツで滞在制作をするんですけど、僕がやっている『演劇クエスト』というのはほとんど外でやる作品で、移民街にもリサーチで行くわけです。その舞台となるデュッセルドルフという町では、6月にテロを計画していたとされるイスラム系の人たちが捕まりました。こういうことを言うと危口さんに「ロマンチシズムだ」と怒られるかもしれないけど、僕は本当に命の危険をひしひしと感じていて。あと、今月はこのあと徳永京子さんと一緒に北京と上海に行く。中国はまだ大丈夫かなと思っているけど、まあわからないですよね。そんなふうにしばらくはもう日本にいられる時間が限られていて、その中で皆さんに呼びかけるならこのタイミングしかなかったので、僕にとって緊急性はあるんです。「もう皆さんとは会えないかもしれない」と思わざるを得ない状況の中にいます。この個人的な危機感が、皆さんに関係ないのか、関係あるのかってことは、皆さんそれぞれに問いたいです。

桜井 「緊急」っていう言葉には、社会の緊急事態だというのが前提にあると考えているわけです。芸術が危機的な状況にあるというよりも、社会が危機的な状況にある。そこで芸術はどういうことができるのか、できないのかっていうことだと思っています。芸術の緊急性ってことについては、美術に対する検閲のことが問題になってますよね。今日はそういう緊急性について語るのではなくて、もうちょっと大きく、社会全体の緊急性を芸術がどう受け止めるかってことを皆に聞きたいと思ったので、「緊急」という言葉は正しいなと思っています。

藤原 こういうこと言うと怒られるかもですけど、予定の時刻をだいぶ超過した結果、ちょっとつまらない緊急性に今直面してまして、この後打ち上げを予約しているお店に「遅れます」って僕が連絡しないといけないんですが……あ、もうさすがに終わりますか。そうですよね。今日はほんとはフィリピンの話もしたかったんですけど。というのは僕はフィリピンにこの問題を解く手がかりがあると感じているんですね。5000年前のスープの話と政治性とを結びつけることができるのは、フィリピンの今の芸術だと思っているんです。その話を8月27日に伊勢佐木町に新しくできる「THE CAVE」というアートスペースで、フィリピンのディレクターを招いてやります(トークセッション「革命のためのリハーサル」)。僕の中でもまだ仮説段階なので、そこで煮詰めてみようかなと思います。さっきも言ったように、今日の集まりは有限ではあるけれど、次に繋がっていくものでもあるので、よかったらそちらにも来てください。

桜井 ちょうど1年ぐらい前にある若い作り手とtwitterでやりとりしたことがあるんですけど、今の日本の演劇の状況の中で、「政治的な問題を扱わないと評価されないんじゃないか」というフォビアが若い人たちの一部にあるらしいんです。政治的なことを話題にしちゃいけないって空気の中で育っている人たち、政治的なことを言うと引かれるという環境に置かれながら、一方で、政治的なことを言わなきゃいけないのが演劇だと思っている。そういうねじれがあるんだなということを、思い出しました。

危口 両方同時にやればいいんですよ。政治的なことをクラスメイトに話して若干引かれるということと、劇場でそれをやって褒められるということを、彼ないし彼女の中で同時に体験すればいい。ようするに皆、欲張りになればいいってことです。

大道寺 ああ、水も火もいっぺんに出す?

危口 そう。実際、欲深いほうがいいかなと思うんです。そのほうが作品もよくなる気がする。よく深く、かつ個別であるべきだと思う。好きなものについては誰かの承認を求めない。連帯するときは連帯でいいんですけど、個別で行けるところは個別で行って欲しい。「政治的な話をしたら友達が引いた」とかっていうのは、別に気にしないっていう選択肢もある。

藤原 ……もう時間ですね。最後に一言だけ付け加えると、今後どの町に住むかってことを考えてみた時に、やっぱりどうも東京まわりは窮屈であんまり面白くないかもなーって思っているんですよね。いや、ローカルとしての東京は好きですけど。でもさっき桜井さんが言っていたように、「政治的なことを言うと評価される」みたいなのはせせこましい、せこい話だなと思っちゃうんですよ。でも、国内外のいろんな場所でいろんなアーティストに会って話してみると、みんな色々考えて活動しているし、それを記録していくことは大事だと感じる。それを追って僕は旅に出ようかなと今日あらためて思いました。

今回のミーティングは、たぶん文字にして公開しますので、そこから何かにつながってくれるといいなとも思っています。僕はもうたぶん、この後の関西編以降はこうしたミーティングを企画しませんけどね。言いたいことはめっちゃあるんですけど……僕がいつまでも日本で批評してると思うなよ、とは言いたい。それだけです。今日は皆さん、来てくださってありがとうございました。危口さんご提案の通り、黙々と一人で景色を見ながら帰るのもいいと思いますし、まだまだ話し足りないって人はぜひ打ち上げに来てください。

(終幕)

 

※危口統之氏による注1

当日の会場空間構成は、通常の舞台公演と全く同様のかたちであった。一般参加者はひな壇に組まれた客席に収容され、登壇者は舞台上横一列に配置された椅子に座った。順列は上手(客席から見て右側)から、桜井、危口、山田、捩子、佐藤、藤原。下手壁際にスカイプ参加だった大道寺を表示するモニターが設置された。

 

※危口統之氏による注2

ユートピアについて語るその場はまだユートピアではない。この手の議論の一番の問題は、理想や理念について議論がなされる場が既にして理想的ないし理念的だと思われていることにある。これに加え、時間による制限を無視し延々と議論し続けることが何かいいことのように見做されている(SNSがこの傾向に拍車をかけている)。むろんひどい勘違いである。リベラルなことを話し合う場がリベラルであってほしいという気持ちは非常によくわかるが、それがまだ実現されていないからこそ議論が交わされているのであり、だとするならばルール作りや会場空間の設計も含めて然るべき技術が行使ないし開発されるべきだった。それはまだ未熟なものであるはずだが、それでも我々は採用せざるを得ない。その諦念を持てない限り、議論はいつまでも床屋政談の域から出られないだろう。結局は制度と制度の闘争であるのだから、求められるのは創意工夫のみである。

 

※危口統之氏による注3

「2個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除ける2法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。上品も下品も入らぬ図々敷方が勝つのぢや。賢も不肖も入らぬ。人を馬鹿にする方が勝つのぢや。礼も無礼も入らぬ。鉄面皮なのが勝つのじや。人情も冷酷もない動かぬのが勝つのぢや。文明の道具は皆己を節する器械ぢや。自らを抑える道具ぢや、我を縮める工夫ぢや。人を傷つけぬ為め自己の体に油を塗りつける[の]ぢや。凡て消極的ぢや。此文明的な消極な道によつては人に勝てる訳はない。―夫だから善人は必ず負ける。君子は必ず負ける。醜を忌み悪を避ける者は必ず負ける。礼儀作法、人倫五常を重んずるものは必ず負ける。勝つと勝たぬとは善悪の問題ではない ―powerデある ―willである」   夏目漱石「断片」より

 

 
■付記:危口統之氏

「政治」「芸術」ともに大きな概念なので、使う際にはそれ相応の定義が必要だが、特に設定がなく進んだ。例えば芸術というならば音楽や書なども含めてよかったのか。一時期フジロックが批判されていたが、あれはフェス運営に関するものなので音楽の政治性とはまた違う。とはいえその違いをネグって「音楽」の問題だと雑に括ることによって騒動が起きたともいえ、やはり語の不正確な使用はよくない。たとえば音楽の政治性といえば、平均律や五線譜など西洋由来の諸制度を批判することなどが基本で、そこに気づかないならば、我々は安野太郎のゾンビ音楽から何も学んでいないといえる。演劇もまた同様に、言葉と体、演出家と俳優、公共劇場と劇団、助成制度、上演空間と作品、チケット予約制度、劇評の在り方、それぞれの関係において政治は存在し、かつ内容とも切り離せない重要な問題群である。しかしこれらについても、贅沢貧乏や悪魔のしるしなどの好例があるにも関わらず触れられることは殆どなかった。
そもそもあの場で、つまり藤原と桜井によって「政治」と名づけられたものの正体は何だったのか。上記のミステイクから推測するにそれは個々のジャンル内におけるポリティクスではなく、国家行政のことだったのではないか。ならばイベント名も「国家と演劇」などでよかったのではないか。むろんそうすることで取りこぼしてしまう問題もあるだろうが、より深化した議論を望むならば焦点化は必須であり、それこそ取捨選択、政治の問題だ。

 

■付記:桜井圭介氏

危口くんの「付記」の「批判」について、少しだけ。たしかに現時点において僕は、平均律や五線譜など西洋由来の諸制度批判の「政治性」や、チケット予約制度の「政治性」、にはまったく興味が持てない、あるいは「言葉と身体」や「演出家と俳優」には関心があるが、それを「政治性」としては考えられないのだ。マイクロ・ポリティクスが大文字の政治を変革し得るということは究極的には正しい、という確信が持てないのだ。端的に余裕がないのである。そうであるなら表現に関わる資格はない、ということなのかもしれないが。ともかく8月のミーティングでは、マイクロな一人ひとりの表現や表現行為が、状況(大文字の政治)に対してどのような戦い方があり得るのか、を訊いてみたかったのだった。床屋政談ではなく。

 

 

(公開日:2017.1.8)